神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 穴太部神社

穴太部神社
 式内社「穴太部神社(あなほべじんじゃ)」は、愛知県一宮市木曽川町玉ノ井の「加茂神社」に比定する説と、岐阜県羽島郡柳津町の「天神社」に比定する説があるが、従来は穴太部神社の所在は、明確でないとされている。

<加茂神社>


【所在】

愛知県一宮市木曽川町玉ノ井字穴太部4に鎮座する。

式内社調査報告では、「木曽川町史」の説を引いていて、

「現在の加茂神社及びその周辺は、玉ノ井字穴太部の地名を残しており、この地が穴太部氏と関係があったことを示している。穴太部神社が祭られる地にふさわしいと言えよう。」

加茂神社は、玉ノ井集落の西北端にあり、神社のすぐ西方には、木曽川の堤防が見える。

【祭神】

祭神は、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)ということになっているが、「式内社調査報告8」によると、「穴太部氏の祖神であろう」としている。

玉依姫命は賀茂別雷命の御母神で、共に京都賀茂別雷神社(上賀茂)賀茂御祖神社(下鴨)の祭神。

「穴太部氏」とはどのような氏族だろうかとあたってみると、金達寿著「日本の中の朝鮮文化6」には、次のようにある。

「そのアナホ・アナオ氏とはいかなる氏族であったかというときに、近江国滋賀郡・蒲生郡・坂田郡等々に繁栄した穴太氏があげられる。これらは新羅の五畿停の一つ安羅停(任那から新羅に帰属)からの帰化人のすえだとされているものである。(天日槍が最初にとどまったと伝えられる滋賀県蒲生郡穴村には、安羅神社があり、丸い石十数個を神体としている)。アラがどうしてアナオ・アナホになるのかよくわからないが、穴と穴太・穴穂とは通ずるもののようである。

【由緒】


「社伝によれば欽明天皇の御宇(540)玉の井の霊泉の辺りに奉祀せりと伝えらる。延喜式神名帳の葉栗郡穴太部神社(御子・穴太部王を祀る)。本国帳従三位穴太部天神が当社である。堀河天皇寛治4年(1090)京都加茂四十二所の御厨の一つが此の所に置かれ、賀茂別雷命を合祀し賀茂神社と改称せり。
当神社は濃尾の大平野を流れる木曽川の畔に神鎮まりまして、境内は古来より広大鬱蒼として風致備わり蒼生の心根を浄化する霊場として尊崇篤く、寛治7年(1093)以来天下泰平五穀豊穣の祈願として執行される葵祭りの競馬の第18番を尾張国玉井庄の馬として牽引馬料を奉献するを例とせられたり。」
【社殿】


社殿は拝殿・渡殿・本殿と続き、南向きに建つ。

拝殿屋根には、「立ち葵」の変化したと思われる紋がつく。

 

拝殿正面の蟇股。


本殿は、流造りで千木・鰹木はつかない。


【参拝記】

2011年1月30日、一宮の北部地域にある式内社や八剣神社を訪ねて歩いた時の最終訪問地で、籠守勝手神社から西へ、JR、名鉄の線路をすぎて少し行くと「八剱神社」があり、そこから南西へ歩くと、名鉄尾西線の終点駅の「玉ノ井駅」があり、その近くに「賀茂神社」がある。

鳥居をくぐった正面に石造りの神橋があるが、その向こうに社殿はなく、右にずれたところに池、透かし塀、社殿がある。

 

賀茂神社の拝殿の向って左に、「八剱社・金刀比羅社・春日社・津島社」が祭られている。


社殿の脇の森の中に出雲社や玉乃井稲荷、そして光明皇后の病気を治したという「玉の井の霊泉」がある。

 
 
 

「玉の井の霊泉」については説明板があり、

「境内に湧出する清水は古来より名高く、聖武天皇の御宇(729)霊泉により「光明皇后病気御平癒以来当社参拝し霊泉を用いる時は種々の疫病眼病を治癒すると云ひ、雷神の御神符を家々に祭る時は雷災を避け得る霊験ありと伝えられ遠近よりの参拝者後を絶たざる有様なりき。
永仁4年(1296)参議飛鳥井雅経当社に参拝し、 「思ひいつや みたらし川に せしみそき わすれぬ袖の 玉の井の里」の歌を奉献し、又秋隆も「汲みゝれは 遠きむかしの おもかけは こころにうつる 玉の井の水」と詠進せり。
近世江戸時代当地が尾張藩に属するや寛保元年(1741)藩の老職瀧川豊後守は石燈籠壹基を寄進し宝暦6年(1756)藩主宗勝も又同じく壹基を献じ北方奉行所は毎年備銀を供し神門及び霊泉「玉の井」の修理を命じたり。
明治11年3月(1878)玉の井清水の後世名所古跡として失われん事を慮り、時の県令安場保和は「玉井清水」の献碑をなせり。」


そして境内の片隅に、一宮市指定文化財の「古神門」が保存されている。


説明板によると、

「高172cm 横254cm。 鎌倉時代に作られたとされるが、老朽甚だしく、建立当時の全容を知ることはできない。木鼻の形状は珍しく、広島の厳島神社などにあるのみである。「尾張名所図会」に「古桟門、こは殊に古代の物にて、左甚五郎作とも武田番匠の作ともいひつたえたり」とあるが、誰によって作られたかは分かっていない。
 社伝によれば、天明年間(1781~1788)に尾張藩主が視察、覆屋を作って保存するよう命令があり、現在の地に移されたという。その後、明治23年(1890)宝物取調官川田剛らの指示により、さらに棚を設けられた。」


「木鼻」の形が珍しい、ということでとりあえず写真を撮っておいた。


神社には色々な神宝が保管されている。


この日の、式内社・八釼神社巡りは終了。
すでに夕暮れが迫り、玉ノ井駅で帰りの電車を待っているうちにすっかり日が暮れてしまった。

<天神社>


【所在】

岐阜県岐阜市柳津町北塚2-27に鎮座する。

柳津集落の中心部北端にある。

穴太部神社が柳津町の天神社とする説は、式内社調査報告では、「それほど根拠のある説とは考えがたい」としている。

【祭神】

祭神は、天穂日命、菅原道真

【由緒】

境内に由緒書が立てられていて、「元穴太部神社」としている。


【社殿】


社殿は、南南西向きに建つ。


拝殿正面の蟇股には、天神社の梅の紋。

 

本殿は覆い屋の中にあり様式は確認できない。


【参拝記】


2012年4月29日、愛知県と木曽川を隔てて接する、岐阜県羽島市の式内社・八剣社、12社を名古屋市西区の実家から出発して自転車で見て回った。

この天神社は、その日6番目に訪れた。

一の鳥居は人家の中の参道入り口に立ち、少し進むと二の鳥居と神社の社叢が見える。


社殿脇に、境内社の「洲原社」がある。


社殿東側には、「伊勢神宮遥拝燈」が社の内に祀られている。

 
学問の神様でる天神様、「筆塚」もあった。